2025/08/23 11:32

伊万里焼(いまりやき)は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称です。
近世の伊万里焼は肥前国、特に西肥前一帯で焼かれた磁器の総称でした。
この名は磁器の積出港であった伊万里港に由来し、有田の製品のほか、三川内焼、波佐見焼なども含んでいます。
国内外で「イマリ(IMARI)」と呼ばれました。

1897年(明治30年)に門司・有田・佐世保間に九州鉄道が開通すると、焼物も鉄道輸送されるようになり、
この頃から有田焼、伊万里焼、志田焼、波佐見焼、三川内焼など、焼物は産地別の名前で呼び分けるようになっていきます。
その結果、近代以降に伊万里市などで焼かれている磁器も「伊万里焼」と呼ばれるようになったため、
区別するために前近代のものは「古伊万里(焼)」と呼ぶことがことがあります。

古伊万里は近世肥前磁器とも称され、1610年代から焼かれるようになった日本で最初の磁器です。

前回も書きましたが、通説では、肥前の領主であった鍋島直茂が豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加したことをきっかけに、朝鮮から多くの陶工を連れ帰り、これらの陶工によって有田における磁器製造が開始されたとされています。

その中の一人、李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が有田で磁器の原料となる陶石を発見し、
1616年に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされています。
金ヶ江三兵衛が実在の人物であることは古文書等から確認されていますが、1616年に初めて磁器を焼造したということは史料からは確認できていません。

有田は山に囲まれた盆地にあり、陶石(磁器の材料)は火山性の流紋岩で、長い時間をかけた温泉効果で白色の陶石に替わり、「変質流紋岩火砕岩」と呼ばれるものになりました。
この岩を細かく砕き、陶土(磁器用土)として利用しました。
また坂が多い地形が登り窯を作るのに適していたとも言われています。

初期の磁器は、砂目積みという技法が使われています。
砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、中国製の磁器にはみられない朝鮮独特の技法です。
このことから、朝鮮から渡来の陶工が生産に携わったことがわかるのです。

一方、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁であったので、
呉須(焼くと青くなる)で文様を描く染付の技法や意匠は中国由来のものであると考えられます。

このいろいろな技法を取り入れて独自の磁器が発展していくのはいかにも日本らしいですね。

しかし、初期伊万里は絵付けの発色が安定せず、生地も厚く歪みや押指の跡が残るなど粗雑な部分があり、
次第に九谷焼などに押され市場から姿を消してしまいましたが、1960年頃より素朴な美しさや叙情美が再評価され、
早々に淘汰されたことによる流通量の少なさから希少性が高く珍重されるようになってきました。

またまた前回も書きましたが、1640年頃からは鍋島藩が将軍家・諸大名などへの贈答用高級磁器を製造する藩窯が活動を始めます。
この藩窯製品を「鍋島様式」あるいは「鍋島焼」と呼んでいます。


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