2025/08/16 10:35
有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器で、その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、
「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれます。
献上用の極上品のみを焼いた作品があって藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、
皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいたそうです。
有田焼は高級なイメージがありますが、さらに高級なものがあったんですね。
■「有田焼」と「伊万里焼」
明治まで、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、
積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていました。
明治以降、輸送手段が船から鉄道等の陸上交通へ移るにつれ、有田地区の製品を「有田焼」、
佐賀県の伊万里地区の製品を「伊万里焼」と区別するようになったそうです。
歴史的には、通説ですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、陶工たちの一人の李参平が、肥前の領主であった鍋島直茂に連れ帰られ、
有田で白磁鉱を発見し、日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖とされています。
有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もあるそうです。
有田焼からは少し外れますが、(前にも少し書いた、波佐見焼の話です)
17世紀末頃からコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産しました。
安価で流通したこれらの碗は、当時、人気を得た屋台でも食器として使用されました。
当時の屋台が「喰らわんか」と客引きをしていたことから、波佐見窯で焼かれた安価な庶民向けの磁器を「くらわんか碗」と呼ぶようになりました。
一方、先にも書いた「鍋島焼」は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていました。
鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人で最高の作品を作っていたようです。
当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯では、鍋島藩が職人の保護、育成にあたり、
生産された磁器は藩が全て買い取ることによって、職人の生活は保障されていましたが、
技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に隔離され、職人は一生外部に出ることはなく、
外部から人が入ることもほとんどないという閉鎖的な社会が形成されていました。
またまた余談ですが、ついに1806年に瀬戸の陶工が潜入に成功し、技術が漏洩します。
以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていくことになり、
江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていくようになりました。
しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで輝きを放っています。
ちなみに、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と呼びます。
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